時を告げる神殿の鐘の音がウェンデルの町に響き渡る。ある人はその音を「マナの女神の福音」だと言うし、ある人は「八精霊の歌う祝福の歌」だと言うらしい。そして、その澄み渡った音は彼の居る神殿の中の小さな部屋にも微かだが等しく聞こえて来る。

その音に、彼の目の前に用意された小さな椅子に座る女はビクリと体を震わせ、蹲る様に耳を塞いだ。

 

「どうされました?」

 

急に蹲り震えだした女に彼は優しく声をかける。が、がやはり耳を塞ぐ女には聞こえていない様で、女はまだ耳を塞いで足元に視線を落としたままだった。彼が聖書を手にゆっくりと立ち上がり女の真正面まで進み右肩に優しく手を置くと、やっと少しだけ女の視線が上がる。

 

「ど、う、さ、れ、ま、し、た?」

 

女の視界に入るように彼は膝を床に付き、声は聞こえなくとも唇を読んでくれればいいとゆっくりと大きく口を動かす。それを見た女は一度、彼と同じように唇を動かした後、そろそろと耳から手を外した。

 

「いま、なんて…」

「どうなされました、と…」

 

先ほどより優しく、迷子に話しかけるように彼が微笑むと、女は見開いた瞳から涙を落とし、頭を抱え込む。

 

「あ、あの、こえ……」

「声?」

 

ガクガクと震えながら見開いた瞳から涙を落とし続ける女の言葉に彼は少しだけ首を傾げる。彼に聞こえるのは女の声だけで、他には何も聞こえない。一体誰の声が聞こえるのだろう、と彼がもう一度首を傾げると、女の肩に置いていた手が急に強い力で締め付けられた。

 

「あ、あの子が、泣いているのです!そうに違いありません!!あの子が、泣いて、私を、攻めて!!!」

 

しがみ付く様に彼の腕を握り締め、女が喚く。瞳からただ溢れ落ちているのではない量の涙が、流れとなって彼の法衣の袖を濡らした。彼は女の剣幕に一瞬驚いた後直ぐに冷静になり、何時もの様に目の前の人へ取るべき最良の行動を頭の中に描いて実行に移す。

先ず聖書を床に置き、彼自身の腕にしがみ付く女の手の上にその手を静かに乗せ優しく撫でると、ゆっくりと口を開いた。

 

「あれは、ただの、鐘の音です」

「違います!!あれは!!あの声は…!!」

「あの声は?」

「あの声は!!私の!!」

「貴方の?」

「私の……あぁ!!どうしたら!!」

 

彼の最初の一言に何故か激昂した女は意味の解らない言葉を並べて彼の腕を更に強く握ったが、彼は表情を動かさないまま微動だにせず優しくただ女の言葉を繰り返した。それは、こういう時は何を言っても相手の耳には入らないと知っている彼なりのやり方で、女が落ち着くまでそれは続いた。

 

「…そうだとしても、貴方を攻めてはいません」

「何故!!」

 

ようやく女の気持ちが落ち着いてくると、彼は優しく、小さな声で女に告げる。そして、その言葉にまた感情が高ぶったらしい女が彼に掴みかかろうと腰を浮かすと同時に彼は優しく鋭い声を出す。

 

「ここは、何処ですか?」

「ここ!?ここは!!……ここ、は…」

 

彼の言葉に女の伸ばした腕がピタリと止まった。ここは、と繰り返しながら床へと崩れ落ちるように座り込んでしまった女の肩に、彼はもう一度手を乗せる。

 

「ここは、告解室です。ここは、罪を許す場所です」

「…ゆる、す…?」

「はい。過ちを赦す事こそすれ、攻めるものなど、何もありません」

「何も…」

「えぇ、何も」

 

彼が女の言葉に頷くと女は床に突っ伏して泣き出し、何度もごめんなさい、と繰り返した。それは誰に対する謝罪なのか彼には解らなかったが、女が自分の罪を認めているということだけは解った。彼が女に肩に置いた手を外し床に投げ出された女の手をそっと握ると、それに気がついた女がグシャグシャの顔を上げる。それに微笑んでから握ったままの手を床に置かれたままの聖書の上へと置くと、静かに聖印を結んだ。

 

「マナの女神は貴方を赦すことでしょう」

 

優しく静かな、決して押し付けがましくない彼の言葉に女がまた顔を覆って泣き出すと、彼は聖書を拾い上げそっと静かにその場を後にした。こういう時はただ一人で涙が枯れるまで泣くほうが良いと彼は知っているし、彼女にこれ以上彼が出来る事など何もないと解っている。そして実際のところ、あの女性に自分が出来る事など最初からなかったのだ、とも思っていた。

自分は神でも何でもない一人の人間である。自分がしたのは彼女の話を聞くことだけで、彼女を闇から救うことも、赦すなんてことも出来るはずは無い。まして、マナの女神が彼女を赦すのか赦さないのかと言うことも、知っているはずが無い。そう。自分は何も出来ないし、女神が何をしてくれるかなど彼の知るところではない。全ては告解をしたその人自身が決めることなのだ。だからこそ、彼女だけではなく告解を望む信徒が自分なりの“答え”を見つける手伝いをする為に彼はいつも此処で告解を聞くのであるし、それが自身に与えられた神命だとも思っている。

自分を赦すのか、このまま赦さずただ己の罪に酔うか、それとも罪を認め、心にそれを持ちながら前を向いて進むのか。

静かに告解室の部屋の扉を閉めると、つい先ほどまで耳に入っていた女の嗚咽は聞こえなくなった。

 

「終わったよ。でも…」

「はい。いつもの様に、ですね?」

「あぁ…いつも済まないね。ありがとう」

 

扉が開いたことに気がついた見張りの修道士に女が自分から出てくるまで居てくれるように彼が頼もうとすると、いつも同じ事を頼まれているらしい修道士は既に彼の言いたい事が解っていて優しく微笑んだ。それに礼を言って微笑み返すと、彼は次の向かうべき場所へと足を進める。少し歩くと後ろから誰かが彼の名前を呼んだ。

 

「ベルガー様!」

 

その声に立ち止まると、何故か一瞬、女に掴まれていた腕が痛んだ気がした。が、彼は気のせいだろうと首を振ってから振り向く。するとそこには先ほどまで告解室の中で泣いていたはずの女が扉の前に立っていた。彼が微笑むと女が深々と頭を下げたのでそれに答えるように聖印を結ぶと、顔を上げた女の顔がぎこちない笑顔を作る。

…そうですか。貴方は。

その笑顔に一層優しく微笑み返してから彼は女に背を向け、後ろで修道士に何度も礼を言う女の声を聞きながら長い廊下をゆっくりと歩きだした。